新聞は読まなくなっても、キクラゲは食べる。毎日新聞が「農業」を始めた理由

新聞社ビジネスモデル

新聞社が「農業」に足を踏み入れた理由

新聞社の印刷工場といえば、立ち込めるインクの匂いと巨大な輪転機が唸る、まさに「工業」の世界です。しかし今、その現場で全く異質の“取り組み”が行われているのをご存知でしょうか?

毎日新聞グループの中核会社「毎日新聞首都圏センター(MSC)」が埼玉県川口工場で開始したのは、なんと“キクラゲ”の栽培。その名も「彩(さい)のきくらげ」です。

「なぜ新聞社が?」 その一見突飛な挑戦の裏には、レガシー産業が生き残りをかけた、極めて合理的で情熱的な戦略が隠されていたのです。

第1章:1度単位の「環境制御ノウハウ」が農業に化けた

MSC川口工場がキクラゲ栽培に乗り出したのは、単なる思いつきではありません。そこには、新聞印刷ならではの「高度な環境維持技術」という武器がありました。

新聞用紙は非常にデリケートです。紙の伸縮を防ぎ、高品質なカラー印刷を維持するため、工場内は年間を通して温度・湿度が厳格に一定に保たれています。この「精密な温湿度管理」が、偶然にもキクラゲ栽培に求められる理想的な環境とピタリと一致したのです。

ここで特筆すべきは、この事業が経営陣のトップダウンではなく、現場社員の発案から始まったという点です。

正直なところ、一昔前の新聞業界であれば、このような「突飛な発想」は門前払いされていたでしょう。「失敗したら誰が責任を取るのか」という減点方式の文化が根強く、現場のアイデアが上層部まで届くこと自体が稀だったからです。

しかし今、業界全体が直面している「部数減少」という切羽詰まった危機感が、組織の硬直化を打ち破ったのかもしれません。

固定費のかかる工場を「負の遺産」にせず、いかに維持し、新たな価値を生むか。かつての「責任論」よりも「生存戦略」が優先された結果、現場の「この空調、キクラゲに最適では?」という逆転の発想が、奇跡的にタイミング良く拾い上げられたのでしょうか?

これこそ、伝統企業の殻を破った真のボトムアップ・イノベーションと言えます。

第2章:気になる「インクの匂い」は? 誕生した「彩のきくらげ」

読者が一番気になるのは、「印刷工場で育てて、インクの匂いや衛生面は大丈夫なのか?」という点でしょう。 調べる限り対策は万全です。かなり美味しそうです。

キクラゲが育つのは、印刷ラインとは完全に隔離されたクリーンな「専用栽培庫」です。最大5600個の菌床(きんしょう)を収納できる最新鋭の設備を、部数減少で遊休化していた倉庫スペースに新設しました。

地元・埼玉の愛称「彩の国」にちなんで公募で決まった「彩のきくらげ」は、驚くほど肉厚でプリプリとした食感が特徴と言われています。

その品質はすでにプロの料理人にも認められ、ホテルや中華料理店などの業務筋で採用が急増。現在は楽天市場での一般販売も開始しています。

さらに、今後は加工食品としての展開も拡大するようです。食品ブランドとしての歩みは着実に加速しています。

第3章:レガシー産業の生存戦略「資産共生モデル」

この事業の本質は、既存の固定費を「二重利用」する点にあります。

新聞を刷るためにどうしても稼働させ続けなければならない空調や電力のコストを、そのままキクラゲ栽培にも流用する。これに名称を付けるとしたら「資産共生戦略」です。

新規の設備投資を最小限に抑えつつ、既存の「工場の機能」を新しいビジネスに転用する。これは、人口減少やデジタル化に直面するすべてのレガシー産業にとって、希望のモデルではないでしょうか?

第4章:今後の展望と課題

もちろん、バラ色の話ばかりではありません。全社売上に占める割合はまだごくわずかであり、現時点では「期待のルーキー」といった段階です。

今後の焦点は以下の3点に集約されます。

  1. 利益率の向上:加工食品化による単価アップ。
  2. 地域との繋がり:学校給食への提供や、工場見学とセットにした体験学習。
  3. 水平展開:川口工場での成功を、他の印刷拠点へ広げられるか。

もし将来的に新聞の部数がさらに減ったとしても、この「育てる工場」としてのノウハウを多角化の起点にできれば、拠点の維持費を分担し、存続を支えるための重要な一助となるかもしれません。

結論:インクから農業へ――“育てる工場”への進化

毎日新聞MSCの「彩のきくらげ」は、単なる副業の域を超えています。それは、新聞という成熟産業が培ってきた「設備・技術・人材」を再定義し、新しい命を吹き込む試みです。

かつて情報を社会に届けていた工場が、今は地域の食卓を彩る食材を育てている。 この柔軟な「変身」こそが、不確実な時代における企業の新しい生存戦略の参考になるかもしれません。

次にあなたが食べる中華料理のキクラゲ、もしかすると新聞工場の情熱から生まれた一品かもしれません。